アナザーストーリーズ / 彩野

『混凝土の隙間と奇譚集 四号』収録作品 【お持ち帰りはこちら】

テスト開始まで、残り1時間30分。

大学生、君島くんはまだ暗い朝に立った。

一限に鎮座するドイツ語の定期テストを受けるため、彼は眠い目をこすり、白い息を吐きながら自転車にまたがった。冬の乾いた空気が、体のあらゆる隙間から入り込み、内側から彼の体を突き刺していく。目や鼻や耳や口や皮膚や髪のひとつ一つから、きんきんに凍った冷気が染み込み脳まで身震いする。

なぜ必須単位である言語学が、一日の最初の時限に設定されているのか、これじゃあみんな強制的に大学に通わされているみたいだ、と文句をたれていた君島くんは、しかし、それこそが大学の目論見であることに気がつかずに自転車を走らせる。

ふいに地面できらりと光るものが目に入った。

お金かも、と思った君島くんはブレーキを握る。

ちょうど目の前の信号が赤に変わる。止まるならここでも構わないか、と君島くんは自転車を降りて、ダウンジャケットのポケットに手を突っこんだまま、とことこと光っているものを取りにいくと、それは果たして五百円玉だった。

今日はついてるかも、と君島くんは鼻をずずっと言わせて笑う。

……

それが不運のはじまりとも知らずに。

……

*  *  *  *  *

……

「こいつ借りるぜ!」

颯爽と現れた青年は、さっきまで君島くんが乗っていたサドルに座ると、勢いよくペダルを踏み込んで彼方に走り出した。

五百円玉を握り、呆気にとられている彼に向かって、

「あとで返すから」

とふり返らずに手だけをふらつかせて、その青年は、まるで北風のように去っていった。

ドロボー、と声を出すこともできず、君島くんは立ち尽くしていたが、腕時計に目を落とし、警察に連絡するか、今日のテストを優先すべきかを天秤にかけた。

自転車は盗難届を出せばなんとかなるが、それでテストを逃せばどうなるかわからない。

自転車なら三十分、徒歩なら一時間くらいの道程で。

駅から電車で十八分、そこから五分歩いて大学に到着するから。

計算を終えた君島くんは走り出す。講義室でちょっと勉強するために早めに出たのが功を奏した。走れば間に合わない時間ではない。

自分の不運に涙がこぼれかけるのをぐっとこらえて、君島くんは大学に向かう。

彼の長い一日がはじまった。

……

*  *  *  *  *

……

ちなみに、彼の自転車を盗んだのは、他人の迷惑を顧みない私立探偵、松本杜若である。彼は、近郊の団地で多発している下着泥棒を逮捕すべく、一晩中罠を張り続け、遂に犯人のしっぽを捕まえて、原付で逃走するホシの追跡を行っているところであり、その移動手段として君島くんの自転車を見つけ拝借したのであった。

それはまた別の話。

……

*  *  *  *  *

……

テスト開始まで、残り59分。

真冬が君島くんの顔を引き裂いていく。昇りはじめた太陽はまだ冷たい。

彼は両腕をいっぱいにふって道路をかけていた。ダウンジャケットの中で背中に汗が伝っていくのがわかる。地面を蹴る度に、重要な単語がこぼれおちていく錯覚に陥り、ネガティブな自分を励まそうとするけれど、彼の持久力では暖簾に腕押しだった。高校の頃にテニス部で培った体力は、いつのまにか風化し廃墟と化していた。

目の前の道路から出てきたトヨタマークIIが、タイヤのスリップ音を響かせて突っ走っていく。

危ない運転だな、とその自動車のナンバープレートを眺めていると、けたたましいサイレン音、次いで甲高い摩擦音に、クラクションという轟音の洪水が君島くんに襲いかかってきた。驚いた君島くんは尻もちをつく。

白と黒。パトカーが君島くんの目と鼻の先で止まる。

『そこの少年、早く退いて』

スピーカー越しに命令され、君島くんはアスファルトを這いずりながら、道路を開ける。

パトカーがマークIIのあとを追いかけていく。罪状は、スピード違反と一旦停止無視かな。

偉そうにしやがって、と悪態をつこうとするが、肩で息をしている君島くんは、はあはあ言うばかりで、立ちあがることすらできなかった。

……

*  *  *  *  *

……

ちなみに、道路交通法を無視しまくっているマークIIには、ペーパードライバーの小鳥遊まみる(二十二歳)がハンドルを握っており、助手席には彼女の彼女である小鳥遊季子(二十七歳)が激しい陣痛に身悶えていた。彼女たちは、遺伝子操作による日本初の女性同士による妊娠を行い、その出産が今まさにはじまろうとしているところだった。生まれてくる男の子は、小鳥遊あかねと名付けられ、父親のいない子供ではなく、母親が二人いる子供として、世間から冷たい目を向けられ同級生からいじめられるが、それでも負けずに逞しく生きていくことになる。

成長した彼が子を授かる瞬間、彼は自分の生まれてきた意味に気がつくのだが。

それは、また別のお話。

……

*  *  *  *  *

……

テスト開始まで、残り23分。

しばらくへたり込んでいた君島くんは、目頭が熱くなっていくのをこらえるように、力強く立ちあがった。デニムについている砂をはらっていると、転んだ拍子に、背負っていたディバッグから筆記用具や教科書が落ちていることに気がついた。走っている振動で、ディバッグの口をふさいでいたチャックが開いたのが原因だった。

泣きっ面に蜂、そしてローキックをお見舞いされた君島くんの心はもう折れてしまっていたが、

それを救うものが現れた。

黒いランドセルを背負った小学一年生くらいの少年は、とことこと君島くんに近づき、落し物を拾う手伝いをしてくれたのだ。

感動の波が君島くんを包みこみ、彼は鼻を一つすすると、笑顔でボールペンを渡してくる少年に、ありがとう、と涙にしめった感謝を述べた。

にかっと微笑んだ少年が、次の落し物を拾おうと屈んだとき、

彼のランドセルの口も閉じられておらず、中の荷物がアスファルトに並べられる。

ああ、と君島くんが苦笑して、少年を励まそうと肩を叩こうとすると、空を割りそうなほどの鳴き声が彼の鼓膜をつんざいていった。少年が大きな口を開いて、両目から大粒の涙をこぼしている。

重たいため息がもれる。

お兄さんが拾うからね、ほら、泣かなくてもいいよ、と彼は素早く少年の荷物を集めていく。しかし、最近の小学生は分厚い教科書を抱えているな、と君島くんはたくさんの本と筆記用具を整えて、少年の背負いっぱなしのランドセルの中に戻していく。

ほら、戻したよ、と少年の頭にぽんっと手を載せる。

鼻水まみれの顔にティッシュを当ててやり、君島くんは少年に礼を述べて走り出す。

少年は君島くんに、バイバイ、と手をふった。

……

*  *  *  *  *

……

ちなみにこの少年、奄美翔太は、五歳で大学の修士課程まで修めた超天才児であり、一般人は名前すら聞いたことがないような複雑な公式の解を、君島くんの集めていたノートに暗号として記し特殊施設に向かうところだった。それを狙う悪の組織オジーオズボーン社が、少年に汎用品にしか見えない超高性能GPS搭載型消しゴムを持たせているのだが、奇しくも二人の荷物がごちゃまぜになったとき、その消しゴムが君島くんものと入れ替わり、組織が翔太少年を追いかけることができなくなって、公式が悪用されることを未然に防いだということを、君島くんは知らない。

ま、それはまた別のお話。

……

*  *  *  *  *

……

テスト開始まで、残り-3分。

駅について、改札を通り抜ける。階段を駆け上がり、二段飛ばしで君島くんはホームに飛び降りていく。

電車が発車のベルを鳴らし、閉まろうとするドアにギリギリで滑り込む。腰の辺りでドアに挟まれたものの、もう一度ドアは開き、なんとか君島くんは電車に乗ることができた。

満員電車の中、吊革につかまっているサラリーマンや学生たちが、息の荒い君島くんを邪魔そうに見つめている。君島くんは、深呼吸を五回繰り返し、背負っていたディバッグを両足の間においた。車内は暖房が効いているので、羽織っていたダウンも脱ぐ。

こもっていた熱が逃げて、君島くんはやっと落ち着くことができた。テスト開始には間に合わなかったが、三十分以内ならテストは受けられる。これなら、なんとかなるかな、と君島くんは安心したが、彼の不幸はまだまだ続く。

ダウンを抱えていた君島くんの左手が、眼鏡をかけたスーツ姿の男につかまれ、

「この人、痴漢です」

と、高く掲げられる。

ぎょっとした視線が君島くんに集まる。それに、一番驚いているのは彼であり、身に覚えのないことに、どぎまぎしたために反論の声が出せないまま、多人数の嫌悪感が彼を取り囲んでいく。

被害者と思わしき女性は、潤んだ瞳で君島くんを睨み上げていた。ちょっと茶色がかったショートヘアの女子高生だった。

電車がゆっくりと速度を落とし、次の駅に停車する。ドアが開き、降りる人波にもまれるまま、君島くんは目的地よりも手前で強制的にホームに連れ出された。

彼の手を掴んでいるのは、スーツ姿の男であり、同僚と思わしき男に、ちょっと遅れるから伝えてくれ、と言って一緒に電車を降りた。あの女子高生ももちろんついてきている。

誤解だ、という君島くんの訴えを無視したまま、彼らは駅の端まで君島くんを連行すると、さっきまでの高圧的な態度とは打って変わって、

「じゃね!」

と、笑顔で言って、二人同時に走りだした。

混乱する頭で、現状を把握しようとしたけれど、朝から災難続きの君島くんにとって、それは不可能なことだった。

とりあえず、痴漢として警察に差し出されるような事態にはならなかったが、と君島くんは時間を確認する。テストがもうはじまっている時間だった。けれど、ここで諦めるわけにもいかないので、君島くんは次の電車を待つのだった。

……

*  *  *  *  *

……

ちなみに、彼ら二人、そして車内に残ったもう一人加えた三人組の正体は、すご腕の殺し屋トリオ、ニルヴァーナであり、君島くんと同じ車両に乗っていたターゲットの警戒心を解くために、二人が痴漢騒ぎを起こし、もう一人がターゲット首を一瞬にして締め上げたのだが、ターゲットは人体改造を施されたゾンビであり、十分後に蘇生したあと彼ら殺し屋の命を逆に狙いはじめる。

のだが、それはまた別の話。

……

*  *  *  *  *

……

テスト開始まで、残り-32分。

君島くんが、息も絶え絶えに大学の門を抜けて講義室の前に着いたときには、すでに最終リミットの三十分が過ぎ去ったあとだった。昨日の夜に覚えていた単語や定型文は、今朝から続くアクシデントのために、通学路のあちこちで落としてきており、テストを受けたところで散々な結果になることは明白だったのだが。

諦めのため息をついたとき、背後から乱れた足音が近づいてきた。

ふり返るとそこには、彼と同じように額から汗を流す女性が、膝に手をついて肩で息をしていた。

同じ講義を受けている、北山あゆみさんだった。

……

ちなみに、北山さんも今朝から多大な災難に見舞われていた。

原付に乗っている下着まみれの男に轢かれかけ、派手なカーチェイスのせいでバスが遅れ、天才少年を探す黒服の男たちに問い詰められたために電車に乗り遅れ、同じ電車で揺られていた男性が倒れ、目的地でもない駅に降りて心臓マッサージを行おうとした瞬間に男性が生き返ったりしたために、彼女もドイツ語のテストに大幅に遅れて到着した。

それは、

……

「もう遅いです、よね?」と君島くん。

「ですよね」と北山さん。

お互い小声でそう話したあと、似たような苦笑いを浮かべた。

「一応、入りますか」

「はい」

彼女が頷くのを見て、君島くんはばつが悪そうな顔をしながら、講義室のドアを開いた。

そこで、二人の目が点になる。

がらんどうの講義室には、学生の影が一つもなかったからだ。

二人は、戸惑いながら講義室に入る。あれ、と北山さんが黒板の文字に気がついて、それを指さした。

……

 休講 テストは来週に延期します

……

そろってその文字に目を走らせたあと、どっと圧し掛かる疲れに耐えられず、君島くんと北山さんはその場でふにゃふにゃとへたり込んだ。

そうならそうと前日までにしっかり告知してくれよ、と君島くんが嘆く。

ホントですよね、と北山さんが同意して、

二人で安堵のため息をもらす。

……

*  *  *  *  *

……

ちなみに、ドイツ語の先生はインフルエンザによる高熱で、一週間をベッドの上で過ごすことになるのだが。

それは、それだけの話。

……

*  *  *  *  *

……

次回テスト開始まで、残り6日と23時間18分。

どうしようかな、と北山さんは鞄をおろしながら言った。

「このあと、何か講義取ってました?」

「次は空きですよ」

「じゃあ、一緒にお茶でもしませんか?」

実は五百円拾ったんですよ、と君島くんがおどけて言うと、ついてますね、と北山さんはにこりと微笑んだ。

講義室を出た二人は、食堂に向かうためにキャンパスを並んで歩く。冷たい風に、そろって首をすくめながら二人で笑う。君島くんは今朝からの出来事を語り、北山さんも自分の身に襲いかかった不運を話して、二人の距離はぐっと縮まることになる。二人が手をつないで歩くのに、時間はかからない。

けれど、

それはまた、次のお話。

……

……


……

……

……

……

ちなみに

……

天才少年の消しゴムを間違って持っている君島くんの命が間違って狙われるのも時間の問題であり、そのとき北山さんの顔を黒服の男たちが覚えていたために、君島くんと北山さんの逃亡劇がはじまるのだが、

それはまた別のお話。

この作品は2009年12月30日発行の『混凝土の隙間と奇譚集 四号』に収録されています。
【お持ち帰りはこちら】

【奥付】

『混凝土の隙間と奇譚集 四号』分割版
アナザーストーリーズ


2009年 12月23日 公開

著者 彩野

編集人 今出川潤


このお話はフィクションです。

本作品に関する諸権利は著者自身に帰属します。

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